温泉と歴史

登別温泉9つの泉質ガイド


登別温泉の歴史

登別の語源

登別の語源はアイヌ語の「ヌプルペッ=白く濁った川・色の濃い川」を意味するといわれます。
古くから川の色が変わるほど豊富に温泉が湧き出していた様が思われます。
また、温泉街を流れる川もアイヌ語で「クスリサンペッ=薬湯そこを通って浜にでる川」の意味。
アイヌ語でクスリとは温泉のこと、アイヌの人たちも大昔から温泉を薬湯として重宝していたようです。


温泉地としての登別

弘化2年(1845年)には北海道の名付け親でもある松浦武四郎も登別温泉を訪れ、その魅力を綴っています。
当時はまだ道らしきものもありませんでしたが、後に安政4年(1857年)からは近江商人の岡田半兵衛が道路を開削。
後には湯治の祖と呼ばれる滝本金蔵が温泉宿を建て、新しい道(現在の道筋)を整備し、現在の基礎を築きました。
また名湯の副産物・硫黄の採掘も国の保護政策に加えられるようになります。


登別温泉の発展

その後、日露戦争の傷病兵の保養地に指定され全国的に知られるようになり、旅館、みやげ店などが建ち並ぶ現在の温泉街の原形が形成されました。
交通の面でも更なる革新が行われ、徒歩か馬車に頼っていたものを、大正4(1915)年に鉄道を敷き軌道馬車にし、大正7(1918)年には蒸気機関車、大正14(1925)年には電車へ、着々と整備が進められました。
電車と民家は同じ発電所から電気の供給を受けていたので、たくさんの人が電車に乗ると電球が暗くなり「今日はたくさんのお客さんが来た」とわかったそうです。こうして登別温泉を訪れる人は増大し、それに伴い登別温泉も発展していきました。
自然湧出量1日1万トン、源泉温度45℃~90℃の高温、そしてなんといって9種類ものバラエティ豊かな泉質が魅力です。これは世界的にも珍しく「温泉のデパート」と呼ばれるほど。古くは湯治場として病気、怪我の療養に利用され、近年では健康な人が心身のリフレッシュや積極的な健康づくりに温泉を利用するなど温泉の効能が見直されています。